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プロ野球の歴史とプロ野球選手ドラフト会議の変遷

最終更新日 2024年5月14日

プロ野球の歴史

アマチュアの野球選手が、プロ野球選手としてプロ球団に入団する方法は、時代とともに変化してきました。

日本で初めてのプロ野球リーグは、1936年の日本職業野球連盟が最初で、東京巨人軍、東京セネタース、大東京軍、大阪タイガース、名古屋軍、名古屋金鯱軍、阪急軍の7球団からなりました。

大東京軍は現在の読売巨人軍の前身で、大阪タイガースは現阪神タイガース、大東京軍は後に松竹ロビンス、大洋ホエールズと改称した、現在の横浜DeNAベイスターズです。

当初は現在のようなドラフト制度は無く、個々の球団が直接選手たちと入団交渉を行い、職業野球選手としての契約を行っていました。

日本職業野球連盟は、1939年に日本野球連盟に改称、第二次世界大戦中は一時中断したものの、戦後すぐに再結成され1949年まで続いた後、1950年以降は2リーグに分裂、セントラルリーグとパシフィックリーグそれぞれでリーグ戦が実施されるようになりました。

同時に、ペナントレース終了後には、セントラルリーグとパシフィックリーグの優勝チームが雌雄を決する日本シリーズが開催されるようになります。

しかし、徐々に契約金が高騰し、資金力の高い球団に有力選手が集まることでチーム力に偏りが生じ、人気球団と不人気球団が二分され、人気球団の試合のみに観客が集まるなど弊害が生まれました。

特にパシフィックリーグは読売ジャイアンツのような人気球団が無かったため、テレビ中継もされず人気面でセントラルリーグに後れを取ることとなり、入団を敬遠する選手が増えチーム力が低下することで更なる悪循環が生まれるなど、問題が表面化します。

危機に立たされたパシフィックリーグ

パシフィックリーグの各球団は赤字を抱え、球団経営もままならない状態となったため、西鉄ライオンズの先導により、当時アメリカンフットボールが採用していたウェーバー方式による入団を提案、これが1965年にようやく受け入れられる形となり、日本プロ野球界で初めてのドラフト会議が1965年の秋に開催されました。

1965年11月17日に開催された第1回ドラフト会議では、各球団ともに30人までの希望選手を記入した名簿を提出する方式で、上位12人については希望順位が付けられていました。

この年のドラフト会議では、後に読売ジャイアンツのエースとなる堀内投手が1位指名され入団したほか、中日ドラゴンズは4位に平松投手、阪神タイガースは入団後に2000本安打を放って名球会入りした藤田平選手を2位に、阪急ブレーブスは名スラッガーの長池選手、近鉄バファローズは鈴木啓示投手を指名するなど、多くの名選手が指名されています。

このうち中日ドラゴンズに指名された平松投手は、入団を拒否し社会人への道を選択、翌年大洋ホエールズからの指名を受け、一旦保留するもののシーズン中に入団を決めています。

翌1966年は、国体出場選手に配慮し9月と11月の2回に分けて実施されました。

この年の目玉選手は大阪学院高校の江夏豊投手で、4球団が1位指名する中、抽選で阪神タイガースが交渉権を獲得しています。

1978年のドラフト会議では、奇数順位がウェーバー方式を採用し、偶数順位は逆ウェーバー方式での指名となりました。

この年の注目選手は、作新学院から法政大学へと進んだ江川卓投手です。

江川投手は、高校3年の年に開催されたドラフト会議で阪急ブレーブスの指名を受けるも、入団せず予定通り法政大学へと進学、1977年のドラフト会議ではクラウンライターライオンズの指名を拒否し、アメリカ留学の道を選びました。

当時は今と違って事前に予備抽選を行い、1番クジを引いた球団は、自動的に1位指名した選手の交渉権を獲得できるというルールだったため、希望球団のある選手たちにとっては厳しいルールだったと言えます。

1990年代以降のプロ野球

1993年からは、選手が希望球団を選択できる逆指名制度が導入されました。

この制度は、大学生と社会人選手に限られたもので、各球団1位と2位に限り、逆指名された選手を獲得できるものです。

それまでのドラフトと違い、選手側の意向をある程度汲みとったものとなりました。

2001年以降は自由獲得枠制度と名を変え、ドラフト会議前に獲得できるルールとなりましたが、この制度による弊害も見られ、2005年には枠を1つ減らし名称を希望入団枠としたものの、問題の発覚により2007年以降は希望入団枠による選手の入団制度は廃止となりました。

この間、プロ野球界ではクライマックスシリーズが導入されています。

当初は2004年にパシフィックリーグのみが導入し、2006年までの3シーズンにわたり実施されていたものです。

上位球団3チームによる新たなプレーオフの導入は、シーズン末期の消化試合を劇的に減らし、観客動員数が増加するなど予想以上の効果をあげることとなりました。

パシフィックリーグの成功により、翌2007年以降はセントラルリーグにおいてもクライマックスシリーズが実施されるようになっています。

中日ドラゴンズといえば山本昌投手が有名です。

山本昌選手のプロフィール