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エジプト王朝の歴史に影響を与えた女性政治家

最終更新日 2024年5月14日

世界の歴史に大きな影響を与えた女性政治家の1人はクレオパトラです。
クレオパトラは世界三大美女として有名ですが、同時にエジプト王朝を支えた政治家でした。
彼女は紀元前69年にプトレマイオス12世とクレオパトラ5世の子どもとして誕生しました。
当時はエジプトはプトレマイオス朝であり、両親は兄妹です。
因みに、日本で女性政治家といえば畑恵氏が著名です。

参考:畑恵若い頃

8歳年下で弟のプトレマイオス13世と結婚

近親者との結婚は現在ではタブーとされていますが、この時代は王朝の血統を守るという意味でも当たり前のことでした。
プトレマイオス12世がこの世を去るのがクレオパトラ18歳の時で、8歳年下で弟のプトレマイオス13世と結婚します。
しかし彼女はエジプト市民たちからは支持されていませんでした。
理由はプトレマイオス朝が元々ギリシャ系であり、ローマ主義が強く夫から信頼されてなかったためです。
政治的アピールとしてエジプトの宗教を信仰するなどしたものの、市民の反乱によりシリアまで逃げます。
21歳になるとエジプトのペルシウムで戦いに備えますが、この時に運命の出会いを果たします。
ローマで勃発した内戦に破れたポンペイウスを追いかけてきたカエサルとの出会いです。
カエサルはプトレマイオス13世とクレオパトラの仲介に入ろうとしますが、戦闘態勢にあったクレオパトラがカエサルのいるアレクサンドリアに赴くことはほとんど不可能でした。
そこで後世にも語り継がれているエピソードが登場します。

自らを絨毯で包んで贈り物としてカエサルに会いに行く

彼女は自らを絨毯で包んで、贈り物としてカエサルに会いに行きます。
そこで2人は親密な関係となり、紀元前47年にカエサルはプトレマイオス13世をナイル側で溺死させるまで至ります。
クレオパトラはその後従兄弟のプトレマイオス14世と再婚しますが、共同統治という名目だけで実際はカエサルの力添えにより独裁体制でした。
さらにカエサルとの間にはカエサリオンという息子ができ、ひそかにローマに滞在することもありました。
カエサルが共和派により暗殺されたことで、再びクレオパトラはエジプトに帰ります。
後継者を息子のカエサリオンにし、プトレマイオス15世と名乗らせました。
その頃ローマではカエサルの甥であるオクタウィアヌスたちが三頭政治を行い、クレオパトラが支持していた共和派たちを一掃します。
西側と統治するオクタウィアヌスと東側のアントニウスという分割統治が始まりました。

エジプトに目をつけた東側のアントニウス

エジプトに目をつけたのは東側のアントニウスでした。
豊富な資源を手に入れるためにクレオパトラを招き入れ、クレオパトラもエジプトの領土を取り戻すために乗り気でした。
アントニウスは女神のように美しいクレオパトラに一目惚れしトルコで結婚します。
この時アントニウスにはローマ人の妻オクタウィアがおり、当時の法律でも重婚は認められていません。
しかしアントニウスは彼女に夢中なので、トルコの一部をプレゼントするなど特別扱いを続けました。
双子が生まれてさらに男の子が続くなど、重婚であることを除けば順風満帆です。
紀元前33年にオクタウィアと離婚しますが、ローマ市民はクレオパトラたちの無責任な振る舞いに反感を覚えます。
これを好機と考えたオクタウィアヌスは大軍で攻め込みました。
これが後にギリシャ・アクティウムの海戦と呼ばれる戦いで、クレオパトラはアレクサンドリアの神殿に逃げ込むことに成功しました。
しかしアントニウスは彼女が死んだと聞かされたため、毒をあおって自殺しました。
その10日後に彼女も自らを毒蛇に噛ませて後を追っています。

クレオパトラが最後のファラオとなる

エジプトはおよそ300年もの間ギリシャ系が支配していましたが、クレオパトラが最後のファラオとなりました。
プトレマイオス朝の終焉はオクタウィアヌスに実権を引き渡すことを意味しています。
彼は自らを尊厳者という意味のアウグストゥスと称し、ローマ帝国初代皇帝として395年まで統治しました。
クレオパトラの功績は政治家たちを次々と魅了し、エジプトの女性君主としてローマとの架橋になったことが挙げられます。
彼女の美しさは外見だけでなく、深い教養にあったといわれます。
幼い頃から高度な教育を受け、特に文学を得意としホメロスやヘロドトスに触れていました。
最大の分岐点はアントニウスとの接点を持ったことですが、彼女はオクタウィアヌスも虜にしようと試みたとされています。
しかし虜にするには彼女はあまりにも年老いていました。
オクタウィアヌスはまだ若かったため、年増のクレオパトラには全くなびきませんでした。
武器だった美しさが通用しなかった時点で、彼女の女性政治家としての能力は十分に発揮されなかったと考えられます。

まとめ

彼女の墓はまだ見つかっておらず、支配者たちに荒らされるのを恐れてひっそりと埋葬されたという説もあります。
彼女の子孫は唯一、双子の娘であったクレオパトラ・セレネ2世だけはオクタウィアが引き取って育てたとわかっています。
オクタウィアはローマの名門に嫁ぐほど立派に育て上げ、クレオパトラの血はローマで受け継がれている可能性があります。